2009年 08月 01日 ( 2 )

第3回全日本スキー選手権大会(1925年)

1925年(大正14年)2月、青森県大鰐で第3回全日本スキー選手権が開催された。

この大会では、それまでの2大会での経験を踏まえて、改定が行われている。距離では1kmが廃止され4km・10km・16km・リレー(16km)、コース1週でスタートとゴールは同一地点。テレマーク・クリスチャニアのスラローム競技は廃止。ジャンプ競技は、それまでの2回飛んで飛距離の多い方を選ぶ方式から、3回飛んでその合計点で競う方式に改められた。

この大会の距離競技で、大きな実績を残したのは早稲田大学で、4kmで1位(高橋昴)・2位(矢沢武雄)、10kmで3位(吉田清、1位は北海道の松田幸義、2位は北海道片桐博)、16kmで1位(中川新)・3位高橋昴、リレーで1位(竹節作太、高橋昴、吉田清、中川新)。
その原因はワックスの使用で、日本のスキー競技でワックスを初めて使用した出来事として記録されている。提供したのは大日本体育協会の近藤茂吉で、彼は北欧選手が常用しているワックスの効果を知る為に、早大選手に試用させてみたのである。リレー競技の時の模様を「日本スキー発達史」で中川新がこう話している。

「大鰐大会の前に私達は得体の知れない10幾種かのワックスを入手していたものの、それを全面的に利用するまでの研究はしていなかった。ある一種のワックスで勇敢にスキーの滑走面を塗りつぶす自信はなかったのである。で幼稚にも私たちは登行にさしかかった際、ポケットからクライミングワックスを取り出して底部に塗り、滑降の際はスキーのエッジで塗り取ることにしたのである。スキーの長さについても走る距離が16mという点を考え、また平地、登行、滑降の三者がそれぞれ三分の一くらいずつの割合であるところから、長さも六尺二、三寸にした。締具もフィットフェルトの上置き耳金にし、スキーの厚みもできるだけ薄くした。そして出発前、精製パラフィンで底面全部を塗り、滑走面に些少のワックスを塗るようにしたのである」

ジャンプ競技では、3回飛んでの合計点となった為、各選手とも転倒を恐れて3回とも距離を抑えて失敗を回避する選手が続出。優勝者は青山肇(北海道・北海道大学)で18.6m,17.4m,18.3m、2位は伴素彦(北海道大学)。第1回大会で優勝した讃岐梅二は1回転倒してしまい7位、大会での最長記録の21.4mを飛んだ中居林も10位。

大会総合優勝は関東地区代表の早大で、朝香宮賜盃とリレーの岸優勝旗を獲得。距離での早大、ジャンプでの北大と、2強時代の到来を全国に知らしめた。
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by wataridori21 | 2009-08-01 07:21

広田戸七郎と「スキージャムピング」(1923年)

1923年(大正12年)頃になると、北海道の札幌・小樽周辺では次々とシャンツェ(ジャンプ台)が作られていった。

もともとシャンツェの建設は、非常に手が掛かる上に、専門的な土木工学の知識が必要である。当時の北海道大学では、前述の遠藤吉三郎教授が伝えたジャンプ競技の知識の影響で、その魅力にとりつかれた学生が続出した。
まず大正6年に北大生の大矢敏範が遠藤教授とジャンプ台の研究を始め、小樽商業の裏山で木組みの台を手作りで建設し、大矢本人が飛んだところ18mの距離がでた。その後緑ヶ丘でジャンプ台ができてそこで第1回全日本スキー選手権大会が行われ、小樽商業の讃岐梅二が18.1mを飛んだ(ちなみに非公式だが東北地区代表として参加していた長尾惣助少佐が試しに飛んだ所20mの距離を出している)。

その後、北大生の木原均が中心となって更なるジャンプ台の研究が進められ、札幌の三角山周辺に飛距離30数mの当時としては巨大なシャンツェが作られた。そして木原の指導した門下生から登場したのが広田戸七郎である。

広田戸七郎とは、後に設立される「全日本スキー連盟」の初代常務理事で、日本選手の冬季五輪初参加となるサンモリッツ五輪の日本選手団の総監督となる人物。その彼が大正12年12月に出版したのが「スキージャムピング」。

この本では、スキージャンプの起原から始まり、技術発展の歴史、ジャンプ台の建設方法、服装・スキー板の説明、テクニック、練習方法、審判規定がまとめられている。特にジャンプ台の建設の項目では多くのページを割いて説明しており、作り方だけでなく作る場所がどんな環境が望ましいか、どのような調査をしてから建設場所を選ばなければならないかを細かく記している。

「スキージャムピング」は、その後の日本のジャンプ台建設の際の「虎の巻」となり、後の昭和4年に猪谷六合雄が赤城山にシャンツェを作る際には、貴重な手引書となった。
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by wataridori21 | 2009-08-01 06:20