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日本サッカーの歴史・日本リーグ(JSL)その2

1973年から日本リーグは、参加チーム数を8チームから10チームに増加するなど、リーグ組織の発展が続く。

1974年、ヤンマーの釜本邦茂が、リーグ通算100ゴールを達成(引退までに通算202ゴールを記録。日本リーグで通算100ゴールを決めたのは釜本1人)

1976年には日本リーグ参加11年目の古川電工が優勝。それまでの数年間は若手育成を進め、永井良和(現在はL・リーグの浦和レッドダイヤモンズ・レディースの監督)・奥寺康彦(その後ドイツ1部リーグ・ブンデスリーガ・1FCケルンに在籍し、現在は横浜FC代表取締役会長兼ゼネラルマネージャー)・荒井公三らが成長し、この年に見事に花開いた格好だ。

1977年はフジタ工業が優勝。当時のメンバーにはセルジオ越後、マリーニョ、古前田充、植木繁晴、上田栄治らの名前がある。同シーズンでは日本リーグ史上最多得点(64得点)を記録している。その後も1979年、1981年と立て続けに優勝を勝ち取った。

1983、84年は日本リーグ新時代の到来と言っていい2シーズンだった。クラブチーム「読売クラブ」の台頭である。
1969年に創立され、1977年クラブチームとして初めて日本リーグ1部に昇格。83年に初めて優勝、そして連覇。選手達は、いわゆる「社業」を持たず、サッカーチーム専属の選手でチームが構成されていて、さながらプロサッカーチームのよう。メンバーにはラモス瑠偉、加藤久、都並敏史、与那城ジョージなどが参加しており、その後の黄金時代を支えた。

1985年からは日本リーグ1部が12チームとなる。

1988、89年に連覇したのは日産自動車。メンバーには井原正巳、柱谷哲二、金田喜稔、木村和司、松永成立とそうそうたる面々が揃う。読売クラブとのライバル関係があり、1980年代後半から90年代まで、この2チームによる2強時代が続いた。

1991年、読売クラブが2年連続優勝。そしてプロサッカー・Jリーグ発足を前に、日本リーグは27シーズン、2452試合で終焉を迎えた。
# by wataridori21 | 2007-07-06 22:56

日本サッカーの歴史・日本リーグ(JSL)その1

1965年、日本初のサッカー全国リーグとして、日本サッカーリーグ(Japan Soccer League)が開幕した。

もともと日本の実業団チーム対象の大会には「全日本実業団サッカー選手権大会(1948~1964年に開催)」や「全国都市対抗サッカー選手権大会(1955~64年に開催、クラブチームも出場権があった)があったが、いずれもトーナメント方式で1つか2つの競技場でまとめて開催される小規模のものだった。
しかし、1964年の東京オリンピックで全日本チームが善戦した事を受けて、当時全日本のコーチを務めていたデットマール・クラマー氏が「日本にも全国規模のサッカーリーグを創設すべし」と提唱して、この「日本サッカーリーグ(略称・日本リーグ)」が実現したものである。

参加チームは、古河電工・三菱重工・日立・東洋工業・ヤンマーディーゼル・豊田自動織機製作所・名古屋相互銀行・八幡製鉄の8チーム。

1965年の第1回大会では、下村幸男監督が率いる東洋工業が12勝0敗2分けと無敗で優勝、その後1968年まで4連覇と圧倒的な強さを発揮する。同チームには小城得達・桑原楽之・石井義信・今西和男・松本育夫といった、その後日本代表チームのメンバーとなるハイレベルな陣容を備えていた。

対抗馬は日本代表のエースストライカー・釜本邦茂を擁するヤンマーディーゼル、「黄金の左足」の異名を持つ名フォワード・杉山隆一を擁する三菱重工。三菱重工は1969年、ヤンマーは1971年に優勝している。

この日本リーグから輩出された選手達が1968年のメキシコ五輪での銅メダル獲得の原動力となったため、1969年以降は空前のサッカーブームを巻き起こすこととなり、試合毎の観客が大幅に増加していく。

この為日本サッカー協会は、1972年より日本リーグに2部を創設し1部と2部のシーズン毎の入れ替えを行うなどして、リーグの活性化を図っていく。
# by wataridori21 | 2007-07-06 20:40

日本サッカーの歴史・日本リーグ設立からメキシコ五輪、Jリーグ設立まで

東京オリンピック終了後の1965年に日本サッカーリーグ(JSL、略称・日本リーグ)が開幕した。

JSLは、全日本代表コーチのクラマー氏が「全国規模のサッカーリーグを作るべき」との提言をもとに設立されたもので、高校・大学出の有望選手がリーグの参加チームに加入し、その後の日本サッカーのレベルアップに大きく貢献することとなった。

1967年に東京で開催されたメキシコオリンピック予選では、激戦の末に強豪・韓国をかわして五輪本戦に出場を決める。
1968年に開催されたメキシコ五輪、グループリーグではナイジェリア戦で釜本邦茂のハットトリックなどで快勝、ブラジル戦では渡辺正の活躍などで引き分け、スペイン戦では0-0で引き分けで決勝進出。
準々決勝では釜本邦茂・渡辺正などの活躍で3-1で勝利するが準決勝でハンガリーに敗退(ハンガリーはその後、金メダルを獲得している)。
3位決定戦では地元メキシコと対戦し、釜本邦茂・杉山隆一のコンビプレーが光り勝利、見事に日本サッカー史上初の銅メダル獲得となった。そして釜本はこの大会で得点王も獲得する快挙を成し遂げ、これを契機に日本全国でサッカーブームが巻き起こった。

1974年に日本蹴球協会は「財団法人・日本サッカー協会」となった。
1977年に第1回全日本少年サッカー大会が開催。サッカー人口の底辺拡大のきっかけになる大会でもある。
1978年に第1回ジャパンカップ(現在のキリンカップ)が開催。
1979年に第2回ワールドユースが日本で開催(日本は予選敗退)。
1981年に第1回トヨタカップが日本で開催。

しかし1968年のメキシコ五輪以来、日本はオリンピック本戦に出場出来ず、その後は年々低迷が続いていた。そこに1980年代後半になってFIFA(国際サッカー連盟)からワールドカップの日本開催の希望を伝えてきた為、日本国内でサッカーのプロリーグの設立の構想が上がってきた。

1986年、日本サッカー協会は、将来のプロサッカーリーグの実現する為の一環として、プロ選手登録を認めた。その為、日産自動車の木村和司と当時ドイツ・ブンデスリーガ所属のチーム選手だった奥寺康彦の2人が登録された。
1989年に第1回全日本ジュニアユースサッカー選手権大会が開催。

そして1991年、ついに日本プロサッカーリーグ「Jリーグ」が設立された。
# by wataridori21 | 2007-07-06 03:03

日本サッカーの歴史・終戦から東京五輪まで

終戦後の1946年、戦争の影響から中止となっていた全日本サッカー選手権大会が開催。しかし翌年から一時中断。

1947年(昭和22年)4月、日本の有力選手を集めた東西チーム同士が対戦する「東西対抗戦」が開催。これには天皇陛下が観戦する天覧試合となり、優勝チームには宮内庁から下賜された天皇杯が贈呈、以後しばらくこの大会優勝チームにこのトロフィーが与えられた。
1949年に全日本サッカー選手権大会が再開。
1950年に戦時中に脱退していたFIFA(国際サッカー連盟)に日本蹴球協会が復帰。
1951年にインド・ニューデリーで開催された第1回アジア大会に日本が出場し3位。さらに同年に開催された第31回全日本サッカー選手権大会の優勝チームに、それまで東西対抗戦の優勝トロフィーだった天皇杯が贈られることとなった。

1954年に開催されたFIFAワールドカップ・スイス大会・予選に出場(日本チームがW杯予選に参加するのは、これが初めて)したが、1勝も出来ず、1956年に開催されたメルボルンオリンピックに出場するが予選敗退、1958年に東京にて開催されたアジア大会ではグループリーグで全敗するなど、国際大会で惨敗を続ける。

1959年に開催された第1回アジアユース選手権大会で3位と健闘。
1960年に開催された第40回全日本サッカー選手権大会では実業団チームである古川電工が優勝。それまでは大学サッカー部が優勝していたが、この大会からは実業団チームが優勝を独占する時代に突入する。

その後、日本蹴球協会は東京オリンピックを前に日本チームの強化を進める。西ドイツからデットマール・クラマーを招聘し、元日本代表の長沼健を代表監督に置いた。
1964年に開催された東京オリンピックで日本はグループリーグで強豪・アルゼンチンに逆転勝ちを収め決勝進出し、ベスト8となった。

そして次は4年後、メキシコオリンピックを見据えて協会は、更なる日本チームの強化に乗り出す。
# by wataridori21 | 2007-07-06 02:04

日本サッカーの歴史・戦前の日本サッカー

さて、まず日本サッカーの始まりはいつあたりだろう?

日本でサッカーの国際大会が始めて行われたのは1917年(大正6年)、東京芝浦で開催された第3回極東選手権大会。それから数年の間、日本各地でサッカーの大会が開催されたのだが、その功績が、イギリスにあるイングランドフットボール協会から高く評価され、1919年3月に同協会からカップが寄贈された。このカップ寄贈をきっかけに、日本にも協会の設立を願う声が高まり、1921年に「大日本蹴球協会」(後の日本サッカー協会)の設立が実現した。

そして同年に東京・日比谷にて「第1回ア式蹴球全国優勝競技会」が開催され、優勝した東京蹴球団にイングランドフットボール協会から授与されていたカップが授与された。後にこの大会は「天皇杯・全日本サッカー選手権大会」となり、現在も毎年、元日に開催されている。

1924年には12の大学が参加する「東京コレッジリーグ(後の関東大学リーグ)」が開催。
1927年に中国・上海で開催された第8回極東選手権では、フィリピン戦で勝利。ちなみに、これは日本チームの国際大会における初勝利である。

そして1927年(昭和4年)に大日本蹴球協会はFIFA(国際サッカー連盟)に正式加盟。

さらに1936年にドイツで開催されたベルリンオリンピックに出場すると、1回戦で強豪スウェーデンに勝利を収める。これは「ベルリンの奇跡」と呼ばれ、現在まで語り継がれる伝説の勝利となった。

しかしその後、日本は太平洋戦争に突入してしまい、再び国際舞台に日本チームが登場するのは戦後の事になる。
# by wataridori21 | 2007-07-06 01:03